昭和五十四年五月十八日 朝の御理解


御理解第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子は おかげを受けて遠路のとろを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」


 昨日は福山の方から団体参拝がございました。それこそ遠路のところを参って来る。何を頂こうとして参って来るかと、言うと合楽の御理解を頂くと言う事が、ま、喜びとし、目的として参って見える。
 それは そこそこの教会の流儀がありますけれども、もう合楽はどこまでも、合楽の芯は御理解だと皆も段々言われる様になった。で、その御理解を求めて見える訳ですから、もうこちらに何時間かおられる、もう、ピッチリいつの場合でも御教えを下さる。初めに研修室で前の月次祭のビデオでお説教を頂かれる。そして三時の研修で、研修。今度は人数が多うございますから、共励殿で、ここの研修生の方達と一緒にお話を頂かれる。
 丁度その研修が始まろうとしておる時に、日田から綾部さんを先頭に、皆、前の日の御大祭の御礼に見えられる、だから綾部さんも参加された。日田の方達そうしよったら丁度、福岡の宮崎先生が御参拝になった。そうしてはじまったばっかりの所へ竹内先生が見えた。伊万里の、それで先生方が四人、私と高い所に座って、先生方も昨日は特にそうでしたけども、綾部さん、それから竹内先生、宮崎先生のお話がありましたが、も、それぞれに素晴らしいお話をなさいました。ね。本当に遠路の所を参って来るけれども、沢山な旅費を使って来る。もう、この頃はここでバスが動かん事が分かっとりますからタクシーで皆、久留米からここまで見える。だから帰りの、もうギリギリの汽車の時間まで、またタクシーを言うておられたそうですから時間ギリギリに皆、迎えにタクシーで帰られた。もうギリギリまで、本当にギリギリまでお話を頂いて帰られる。そして私の話を、また聞いて下さり研修生の研修の模様も聞いて下さって、もう、いちいちノートして帰られる、ね。
 此方は参って尋ねる所がなかった、ね。『氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが信心して徳を受けて、身凌ぎをするようになれ』
 その、お道の信心と言うかお話と言うのはもう、教祖の御教えの全てがお徳を受けるためだと私は思うです。その御徳を受けるためにお話を聞かなければわからない。教祖の御教えの深さ、広さも接する事が出来ない。
 あちらの教会では、も、兎に角お話と言うものが全然ないらしい。もう、とにかく汽車が着くたんびんに、もう、お広前いっぱいになるそうですから、ずうっと朝から晩まで御祈念があってるそうです。只、一生懸命、御祈念をして帰る。そしてやっぱり所謂、おかげは頂いておる。御利益、頂いとる。けれどもお徳を受けられる話を頂かない。
 今度の玉水教会が親教会と言う事になっておるんだそうです。あちらも永年教会として認められず、何処と親教会と言うのがなかった。まあ、一寸したかかわりあいから玉水を親教会として、ま、教会になった。そんなわけで玉水は親教会と言うので、御大祭の時には、此頃の春の御大祭にもね、特別列車で八百名お参りがあったそうです。
 大した事ですね。合楽の此頃の大祭の人数位あったわけです。それが全部、親教会、玉水教会にお参りすると言う。ね、そう言う、いうならば、信心があるけれども教えと言うものが全然ない。どういう事になるでしょうか。言うならば金光教によって、おかげを受けるとか、徳を受けるとか、と言うのは話を聞いて助かり、話を聞いてそれが徳になる手立てとして、いかなければならない。所謂、徳を受けて身凌ぎをする様になれ、とこう仰っとられる。ね、身凌ぎと言う事は、ま、いろいろ意味がございましょうけども、徳を受けてと、こう仰っとられる。だから徳を受けるために、ここへ参って来るのだと言う事になる。徳を受けて初めて、お話の値打ちがあるわけなんだ、ね。只おかげを、御利益を頂くと言うだけなら、今の福山の方達じゃないですけれどもね、御祈念を一生懸命しては帰り、そしてやっぱおかげを頂いておると言う事。
 『我が心に紙がござるから、一心を立つればおかげになる』と言った様な感じと同時にそこの教会長の徳だと思いますよね。そんな沢山な人が参って来る、と言う事はおかげを頂くから。
 もう、それこそ著しいおかげが受けられておられるに違いない。でなかったら、そげん信者は参りゃせん、ね。
 合楽にと言うて遠路の所を参って来る。合楽ではそれこそ、今までかって聞いた事がないお話が頂ける。ある時のお参りに丁度、月次祭のお説教を頂かれた。それには、二回続けてそんな事があった。まあ、あちらから参って来る御信者は、信心が低級だと言う意味に話がしてあった。それを昨日、発表の時に話されましたが、もう本当にあの時、二回続けて私共の信心が低級だ、と言われて見れば、言われて見る程に低級だと。だからどうでも、あのビデオはもう一っぺん貸して頂いて、皆にもあれを見せたり聞かせたり、しなきゃならない。と言うふうな事を言うておられましたがね。言うならば何が低級かと言うとお話を頂かずして、おかげを受けておると言う事を、ま、指摘したものだと思うです。私は良く覚えませんけど、確かそうだろうと思うのです。
 そこで、なら、合楽で話を聞く事をたのしみに言うなら、遠路の所を参って来ると、もうここへ来られて帰られる、もう、時間ギリギリまで、もう、いっぱい御理解を頂いて帰られる。いや神様が頂かせずにはおかんと、言う働きがあると言う事です。何時の場合でも、ね。昨日なんか、竹内先生が発表しとられたお話なんかは、もう、本当に合楽ならでは、と言うそのおかげを受けられた話。また私共がこう言うおかげを頂いて、だからこう言う信心にならなきゃならないと言うお話をなさいました。
 宮崎先生なんか、最近の金光教の状況と言うか、こう言う傾向にあるんだと言う話をされました。もう今度、本部から頂いて参りました、私共の、私と泉尾の先生とのお話を、三日間のそれを、講演会のは入って摩せんから、二日間の研修をもう一切が御本にして出ておるのを見せて頂いて言われるのに、もう今度のあれで全教の教師がもう、それこそびっくりしとりますよ、と。合楽は馬鹿のごと、言うならばですね、ごと、思うたのが、こう言う事を言つとる。こう言う話をしておる、成程助かる。これはもう恐らく私の感ですけれども、久留米地区の先生達がおそらく、びっくりしとるだろうと、言う話をされました。
 それども、あ、合楽とは言わんけれども心の中では、そうだろうと私は思います、と。あれだけの事を読ませて頂いたら、そう感じる。と言う様な内容の話が合楽では、いつもそれこそ聞いたら、びっくりするだろうと言う話を毎日頂いとる、と言う事です。
それで頂こうと言う気になるとそれこそ、びっちり福山の方達じゃないですけれども、お話を言うならば思いもかけない、言うなら角度からお話が出来るように、昨日の場合でも宮崎先生、竹内先生、綾部さんと、三人の人達の話を聞いただけでも、例えば今日一日、お参りしてきたがたの、値打ちはあると言う程しの事。それに月次祭のビデオを聞かれて、朝の御理解を頂いて、そしてまた私の話を、丁度四時十五分まで、もう汽車のギリギリの時間までタクシーがここに来て待ってるんですから。と言う様な事でございましたがです、ね。只、話を聞いて有り難いと言うだけではなくて、話を聞いておかげを受けるだけじゃなくて、それが徳を受けると言う事にならなければならない。と言う事であります、ね。言うならば徳を受けて身凌ぎの出来る様なおかげを頂かなければならんと言う事でございます。
 昨日は合楽会でしたから、もうそれこそ西岡先生が司会されましたが、十二時になってもまあだ話が尽きない、も、とにかく有り難いものが盛り上がって来るわけですよね。もう合楽の皆さんの話も、一人一人、もう大変味のある素晴らしいお話でしたが、そこの久保山さんのお話なんかは、も、とにかく、もう、くの一修業、くの一修業と言う事は、修業の第一と言われる。それは言うならば、くの一が自由自在に自分の心を使いまわし、使いこなせる稽古をするように、も、この稽古をする以外はない。もう、こんなに尊い有り難いもうそれを、いくつもの例を話ながら、されましたがね。もう、本当に合楽の信心はここに極まるの。と。だからその気になるとそれが有りがとうなって、楽しゅうなって来る。ね、そう言う、言うならば私は合楽の場合は、日々毎朝、頂いておりますその御理解が、言わばくの一修業によって、生き生きして来るね。こう言う生き方でいくならば、必ずお徳を受けるだろう、と。
 昨日大和さんが発表しとられましたが、昨日は戒浦さんの所で、今度御普請があるんで、棟上げがありました。もう、それこそ菊栄会の方達が皆、御用に行かれたそうですが、もう皆驚いていました。 あの朝の内は、どしゃぶりの様な、私は昨日皆に話ました。本当に神様も大変だなあ、と。
 日田の支部の大祭の日は大体は、もう、おしめりであったと言う事をあくる日に、切り替えて下さった。昨日にね、それが切り替えたばっかりの所に、今日は棟上げですけん、どうぞお天気のお繰り合わせを、と言うて願いにきた。だから、朝の内はジャーッ、と降らせといて、後はすあつかりお天気になっておかげを頂いた。も、それだけではない。もう曇った、照ったの事の中まで、その、あちらの戒浦さん所の棟上げに、天地が合わせて下さる様なおかげであった。とこう言う。
 昨日、梅山先生が発表しておりましたが、本当に日田の御大祭で親先生のお話を頂きながら、自分の子供がもう、それこそ切ない声で、玉串上げる時に、あれは恥ずかしかけん上げん。ち、言いよったつげな。大体は、そればってん悲しゅうてこたえん、ち、言う様な声を出す時に、親として胸が詰まる様な思いがした。それでちょっと外を見たら、パラパラとおしめりがあったそうですね。私は気がつかなかった。これが天地の言うならば悲しい涙か、有り難い涙か、そのしるしを見せてくださっただろう。と言う話をしとります。あらぁ、そげなこっじゃったの。と、もう兎に角日田の大祭はパラッ、とでん降らにゃ日田の大祭じゃなか事、今まで言われて来たけん、やっぱ神様が降らせなさったったのう。と言うて昨日は聞いた事でした。丁度その話の時じゃったそうです。梅山先生がそう言っておりました。それこそ、パラパラと只、降っただけじゃったけれども、神様が親先生の言うなら、お話にそれを実証して下さるかの様な感じがした。とこう言うのです。大和さんのお話もです、お取り次ぎを頂いて戒浦さんの所でこう言う様な、おかげを頂いたがそれこそ、天地が自由になる程しの。と言う信心こそ金光教の信心で言う御神徳とは、そう言う事だと思うんです。いつも天地がバックである。天地が自由になると言う程しのおかげだと言う事なんです、ね。そう言う信心が、んなら、全ての事に親先生の祈りの圏内で、こう言うふうにおかげを頂いておる。
 どんなにお参りしても、どんなに沢山お参りがあったにしても、その沢山な人達がお話を頂いて、それを自分の身に徳を受ける事のために行使する。ためにそれを実験する。そして実証していく。その実験実証のお話が盛り上がってくると、もう止めどがない程しに有り難いお話が出て来る。ね、そう言う日々をです、成程、過ごさせて頂くのだから合楽の信心、合楽理念をもってすると言う事は、こんなにも楽しうして有り難うして、しかも愉快いにまでなれる、と言う事がわかる、と言う訳でございます、ね。だから、そう言う楽しさが出て来る有り難さが出て来る様な、私はおかげを頂かなければ、ですね、合楽通いの値打はない。そう言う生き方をさせて頂くならば、必ず身に徳がうけられる。言うなら身凌ぎが出来るような信心が出けると言う事。
 遠方から合楽は御理解で立っておるんだ、と、そして合楽の御理解を頂いて、言うならば月月、月参りをして見えられる皆さんが合楽で御理解を頂く事を楽しみに参って来る。参って来ると神様がもう、時間いっぱい、いっぱい、ギリギリにです、ね。聞かせずにはおかん、与えずにはおかんと言う、その働きがおこってくる。ね。
 しかも先生のお話だけではない。信者のおかげを受けた方達が、例えば昨日、ね、三人の先生やら、御信者さん方がうつり変わりにおかげを受けた話をなさって、福山の方達に一つの感銘を与えられた様に、ね。頂こうと言う気になると、そう言う働きがあると言う事、ね。だから皆さんでも毎日、日参りをして、また毎日御理解を頂かなきゃならんのです。けどもその頂くと言うその意欲がね、願いがなからなければお話を頂いて、はあ、今日の頂きどころはここだ。今日はこれをもって今日の信心の支え、生活の支えにさせて頂こうと言った様な生き生きとした、ありありとしたものが心の中にひびいてこない。
 合楽では、もう本当に私、昨日そこに出ましたら、そこの研修室が半分、いっぱい、何か箱が積んでありますもん。「会りゃ、何の」ち、言うたら今度ここで保存会よ言うのが出来まして、五、六人の先生方が担当して、私がここ三十年間話して来た、その、そう言う話の記録に取ってあるものやらテープやら、いろんなものが、もう、そこへいっぱい。あれを今から、一々整理せなんなら大変な事だろうと思うけれども、やはり、これは整理するだけではなくて、言うならテープなんかと言うものは、消えたりいろいろするです。だからそう言う手立てをするために、そこに出してあるのであった。ぼっ大なものです。そりゃ、もう、聖者もキリストも、お釈迦さんの経典もかなわんやろと思うくらいです。そんなに合楽に教えがいっぱいあるんです、ね。それを悪くなしちゃならん。ねまらかしちゃならん。と言うのでその保存会が今度出来た訳なんです。
 だからね。勝彦がいつも申しますように、とにかくこれは僕が、私が、亡くなったら、これに取り組んだら、僕が一生でこれをまた、頂き直す事はとても出来ない程しであろうけども、んなら、子に孫にそれが伝わっていく事だろう。合楽理念の言うならば原本である。と言う様な働きまで、起こっておると言う事は、次の時代においてでもです、言うならばね、そう言う働きを受けられて、そして徳を受ける手立てが残っておる。合楽は今、こうやって御比礼を受けておられるけれども、ね、二代、三代と言う事はどういう事になりますかと、中近畿の先生方が見えた時、問われた時、さあ、それは分らん、私が、死んでみなきゃ分らん、どげんなるか。けども合楽理念がある限り、合楽は必ず子に、孫に伝わる、ち、私が言いました。ね。
 昨日はうれしい話を聞いた。昨日は幼稚園の家庭訪問じゃったげな。
 昨日は、も、本当におかげを頂いて、あの私の方の愛子も、それから、田中さんなんかもそうだったが、安武先生なんかは、日田のあれにはどうさせて頂きましょうか、と、どうち、お繰り合わせをお願いしとこう。学校の先生じゃけん、いきなり、あれ、するわけにはいかん。そしたら、丁度、その時間に、先生が「交替してくれ」と言う人があったげな。
 だからそれでお参りできた。と、まあ、熊谷さんも喜ぶ、喜ぶこつ、ね、そういうお繰り合わせを頂かれた。
 椛目の愛子どんが場合も、やっぱそうでした。そげなふうで、家庭訪問があるから、おばあちゃんがその「あんたがおらな出来んばい」と言うげなけん、止めようとおもいます。と言うけん「そげなこつがあるもんか、おくり合わせお願いして、お参りさせて頂け」だから、おくり合わせお願いして参った。そしたら丁度、嫁婿である勝美さんも昨日は学校の方で、家庭訪問じゃったげな。それで勿体島まで来たけんで、ちょいと椛目に寄らせて頂いて帰ろうと思いよる所へ、その幼稚園の先生が見えた。そしたげなら勝美さんが受け持っとる生徒のお母さんじゃったげな。「あら、これはどっちが家庭訪問か分らん」ち言うような事、だったらしいんですけれども。ここのひろえちゃんは、とにかく、ぬるかげな、するこつが、ね。所が、と言う話が出た時にです、合楽の金光様のお坊っちゃまだけは違う。もう、これは先生方がそう言う。あの人が合楽の三代にならっしゃる人げなが、もう、言わっしゃる事、せらっしゃる事がもう全然違う。ち、ま、それはねどげな事か知らんけども、じいっとして聞いてから本当にうれしい、有り難い。
 うん、そげん言やあちいった、違うごたる所があるごたると言うふうにまで思うんですよね。
 此頃、姉ちゃんの方と喧嘩したところが、高い所、押し落とされとる。それが何かタンスの角か何かでガッポリやっとりまさたもんね。あな時、お母さんがえらい怒ったそうですたい。そしたらね泣きながら「お母ちゃん、姉ちゃんが悪いとじゃない」ち「僕が姉ちゃんの言う事、聞間やったけん、僕がケガしたつやけんで」ち言うて泣きながらね。あ母さんが怒るとを止めた、ち。ああ、やっぱ三代。と、まあ、そげなふうに、まあ、思うわけですよね。様にです、なら、もう、すでに合楽理念を、まあだ三つか四つの子供が行じよるね。ケガした、姉ちゃんが悪いから、叩き返すと。そうじぁなくてね姉ちゃんが悪いとじゃない、僕が言う事聞かんじゃったけん悪いと、ち。
 これが合楽理念なんです。ね。問題でもそうでしょうが、こう言う事になったと言うのじゃない、ね。あれがせい、と言うのじゃない。成程、幼稚園の先生が誉めなさったつも、まんざらお世辞だけじゃなかろうごたる、と、こっちはそう思いますけれどもね。そう言う様に、なら、二代が三代が例えば合楽理念の行者としての、信心が出来さえすれば合楽は、いよいよ二代よりも三代と言う、それこそ久保山さんじゃないけれども、その成り行きわ大事にする、その事がもう修業の第一と教えられるのだから、ね。第一の修業をさせて頂いておる、と言う事が有り難い。家庭生活の上にも近所とのつきあいの上にもおきて来る、様々な問題もそれを合掌して受けて行くと言う生き方をです、身につけて初めてお徳が受けられる、ね。
 遠方から参ってくる。御理解を楽しみに参って来る。そこには今度は頂かして帰さねば、持たせて帰さねばおかんと言う働きが起こって来ると同じにです。なら、ここでもそう言う働きが起こっておる中で、皆さんは信心の稽古をしておると言う事。だから持って帰らずして、それを行ぜずして、んならばお話を頂いておるだけならばですね、只、参ってお話を聞いた、と言うだけに留まって、血にも肉にも、それこそ身凌ぎの出来る様なお徳にはならないと言う事。皆さん、教えを守るのが楽しうなる様な信心をして頂きたいと思うね。     「どうぞ。」